「チンギス・ハーンとその時代に関する史料および文学作品」
(Ш. Нацагдорж, “Чингис хаан ба түүний үеийн талаарх сурвалж бичиг, зохиол”, Чингис хааны цадиг, Улаанбаатар.1991. より翻訳)
モンゴルの歴史資料として第一に挙げられるのは、チンギス・ハーンとその時代の歴史を描写した文献である。これらは主に、13~15世紀に書かれたものと、15~17世紀に書かれたものの二つに分類できる。
13世紀に書かれた代表的な歴史資料といえば、よく知られた『元朝秘史』である。この書物の成立年代については学者によって諸説あるが、ここでは1240年に成立したとする説を採用して話を進めることにする。
多くの学者たちは『元朝秘史』を物語性の強い、むしろ口承文芸に属するものであり、歴史的な裏づけは低く、歴史的資料としての価値は低いと見なしているようだ。しかしながら、『元朝秘史』は口承文芸や詩に彩られた側面だけでなく、13世紀のモンゴルの歴史、例えばチンギス・ハーンのとった行動などについて詳しく描写しているという点も見逃してはならず、十分に価値ある歴史的資料だということは否定できない。
『元朝秘史』は当時の文献として唯一残されたものではなく、それと並行してその他の歴史資料も存在していたことが明らかになっている。元の時代の文献を見ると、黄金の家系、つまり皇帝の血筋を引く者にしか閲覧することを許されなかったという『イフ・トプチョー』についての記述がある。
『元朝秘史』は現存するものはすべてモンゴル語の発音に漢字を当てて書き表したものだけで、原本となるモンゴル語で書かれたものは失われてしまっている。1926年に古文書館の館長を務めていたジャミヤン・グンは、ロプサンダンザンの作による『アルタン・トプチ』をハルハのツェツェン・ハン盟のバヤントゥメンの近くで、ユンシィエブ太祖(?)の子孫である人から譲り受けたが、この文献には『元朝秘史』のかなり多くの部分が重複して含まれていただけでなく、『元朝秘史』には記述されていなかった数多くの興味深い事実が記述されている。
ジャミヤンが入手した『羅・アルタン・トプチ』の存在は、『元朝秘史』がもともとモンゴル文字で書かれていたということを裏付ける証拠となりうる。
なお、アルタントプチと呼ばれるものには『羅・アルタン・トプチ』だけでなく、『大アルタントプチ』や作者不明の『アルタン・トプチ』など、いくつか存在する。
J. ツェベーによれば、十六世紀から十七世紀に書かれたサガンセチェンによる『蒙古源流』などはラマ僧たちが実権を握っていた頃に書かれたもので、モンゴルの王族の系統をインドやチベットの系統に結びつけて記述しており、チンギス・ハーンを始めとするモンゴルの王侯たちの行いはすべてチベット仏教のラマ僧の説法に従ってなされていたかのような記述が随所に見受けられる。
その他の文献としては、バーリン出身のラーシ・ポンツァグによる『水晶念珠』、チャハル出身のゴンポジャブによる『恒河之流』、ジャンバルドルジによる『水晶鑑』などが挙げられる。
これらの作品は、当時の知識人たちによって中国語やチベット語の文献を参考にして書かれたという特徴を持ち、作者自身のものの見方が作品に反映されているという点が興味深い。例えば、ある作品では一貫してチンギス・ハーンを主体としているのに対して、別のある作品では弟のハサルを弁護したり賞賛したりするニュアンスが強い。ある作品では、中国の文献にモンゴルの歴史が歪曲して描かれていることを批判している。特に、ラーシ・ポンツァグの『水晶念珠』やジャンバルドルジの『水晶鑑』には、他の歴史書には現れないような興味深い内容が含まれる。
とはいえ、それらの記述には他の歴史書と矛盾するものも少なくない。例えばジャンバルドルジの作品では、テムジンが3歳のときに父親が亡くなり、母親もそのすぐ後で亡くなったと描写されており、その他の歴史書や『元朝秘史』とは内容に食い違いがある。だから、こられの歴史家たちの記述に目を通す際には、十分批判的な態度で臨む必要がある。
上記の文献以外には、『シャル・トージ』や『アスラクチ史』、ロミーによる『モンゴルのボルジギン氏族の歴史』、ガルダン・トスラクチによる『エルデニーン・エルヘ』など、様々な文献が存在する。
また、モンゴル語の文献だけでなく、外国語によって記述された文献も非常に数多く、まず第一に中国の歴史書が挙げられる。数多くの文献のなかでも、特に重要なのは『元史』という書物である。
この何巻にも及んで書き綴られた元史は、元朝の崩壊後に成立した漢民族の王朝である明朝の歴史家たちによって編纂されたものである。この巨著には、現在では残されていない数多くの資料が利用されているだけでなく、間近に起こった出来事を検証して書かれているため、いずれも極めて多くの情報が含まれている。しかしながら、この書物は過分に明代の歴史学者が史実を歪曲して記述した面があり、誤った記述も少なくないという点を指摘しておかなければならない。
モンゴル古典籍院のメンバーであるダンダー氏は、同院のプロジェクトとして、元史を中国語からモンゴル語に翻訳する作業を行った。彼のこの業績は、モンゴル史研究における忘れがたい功績であり、後世のモンゴル人歴史学者のために残された記念碑的事業といえよう。
なお、元史の他には『皇元聖武親征録』というもう一つ重要な書物がある。この書物もまた、ダンダー氏によってモンゴル語訳がなされている。最近では、内モンゴルでも『皇元聖武親征録』が新たに翻訳して出版された。これは元々はモンゴル語で書かれた作者不明の書であり、元朝秘史に書かれている内容とほとんど一致している上に、全く記述されていない内容も含まれているという点が興味深い。
中国にはこの他、重要な文献として漢人である長春真人(邱処機)による「長春真人西遊記」という非常に貴重で珍しい書物も存在する。漢人の学者、長春真人がチンギス・ハーンの命により漢地から中央アジアに向けて長い旅を続け、チンギス・ハーンに謁見したことなどを克明に記録した実話である。
漢語で書かれた重要な資料にはこの他に、『蒙韃備録』、『黒韃事略』という二冊の書物があり、十三世紀のモンゴルの歴史、政治、生活、文学、軍事、道徳習慣に関して信頼に値する情報が含まれている。この二冊の書はモンゴル国で翻訳されたが、出版には至らなかった。しかしながら、内モンゴルの学者たちは『モンゴル文献集(Монгол тулгар бичгийн цуврал)』の中に上記の二冊の書を『皇元聖武親征録』とまとめて一冊の本とし、1985年に出版公開している。
モンゴルの歴史、特にチンギス・ハーンの歴史や伝記に関する漢語で書かれた資料は非常に多いが、これらのすべてを挙げるのはひとまず止めておき、他の外国語で書かれた文献について述べることとする。
まず挙げるべきなのは、ラシードゥッディーン(1247~1318)によって編纂された『集史』という巨著である。この書物は、ユダヤ民族で医師であった(ラシードゥッディーンによって)、現在のイランの地に成ったモンゴル国のガザンやウルジートらのハーンたちの治世の時代に、ハーンらの命を受けて書かれたものである。ガザン・ハーン(1271~1304)は、(中略)イランに成ったイル・ハン国のハーンであり、非常に学識と権力を備えていた人物として歴史書に記されている。
ラシードゥッディーンは、イランのモンゴルのハーンの宮殿にある書庫に収められていた『黄金の秘冊(アルタン・デプテル)』などの、現在では残されていない特に重要な資料を利用しているという点で、(『集史』は)特に価値が高い。
『集史』を編纂したのはラシードゥッデーンとされるが、実際に執筆を行ったのはボルド・チンサンという人物だった。ボルド・チンサンはモンゴルの歴史書について詳しかった上に、『アルタン・デプテル』以外にも、名もない数多くのモンゴル語の作品、記録、論述、メモ書きなどを豊富に所有していたようだ。さらにボルド・チンサンのもとでは、モンゴルの歴史書、法制に通じた老翁たちが書記を務めていたであろうことは言うまでもない。ラシードゥッデーンの作品には、元朝秘史の中の出来事をもっと詳しく書いた様々な史実や伝説が含まれている。それにもかかわらず、学者たちによる詳細な研究が十分になされているとは言いがたい。
ラシードゥッデーンの『集史』の他には、ジュヴァイニーの著による『世界征服者史』という書物がある。ジュヴァイニーはこの書物を1260年に著し、チンギス・ハーンからモンケ・ハーンの時代までの歴史を書き記している。ジュヴァイニーは、イランの地のモンゴル国のウレフ、アバガらのハーンの時代に、政治的地位の高い大臣を務めていた。ラシードゥッデーンは『集史』において、ジュヴァイニーのこの書物を資料として利用している。記録の豊富さにおいてはラシードゥッデーンほどではないが、これもまた重要な文献の一つとして挙げておくべき作品である。
西洋で著されたモンゴルの歴史書には、この他には例えば、プラノ・カルピニの『モンゴル人の歴史』、ウィリアム・ルブルクの『東方旅行記(『蒙古帝国旅行記』)』などの二冊の書がある。1248年にモンゴルに赴いたローマのパプ法王(インケンティウス四世?)の使節プラノ・カルピニ、及び1248年にフランスのリュードスヴィック王の使者としてモンゴルに赴いたウィリアム・ルブリクらの二人の修道士は、互いに近い時代にそれぞれモンゴルに渡って、モンゴルの当時の首都カラ・コリムに滞在した。この間に見聞収集した記録は、当時のモンゴルの状況を非常に詳細に記述しているため、我々歴史家たちに信頼できる情報をもたらしてくれる。
上記の二冊の書物の他には、マガキ・ワルダンらによる古代アルメニア語で書かれた書があり、早くからモンゴルの一部の学者がそれらの文献をモンゴル語に翻訳して雑誌に発表していた。これらの文献からは、モンゴル人が彼らに対して行った征服について、いくつかの興味深い情報が得られる。西ヨーロッパの言語で書かれた重要な文献としては、イタリアのマルコ・ポーロの旅行記が挙げられる。以前、モンゴルの国家アカデミー会員であるリンチンがマルコ・ポーロの作品を極めて美しいモンゴル語に翻訳したものを何章か発表したが、残念なことに最後まで翻訳されるには至らなかった。内モンゴルでは、マルコ・ポーロの作品が二度に渡って翻訳出版されている。
チンギス・ハーンおよびその時代に関しては、国外において数多く学術的な文献が発表されている。特に優れたものとしては、Д.Оссоによる『モンゴル人の歴史』(1824)、ソ連(現在のロシア)の歴史家В.В. Бартольдによる『モンゴル人による征服時代のトルキスタン』、また特に同著者の『チンギス・ハーンの帝国成立について』という輝かしい研究論文がある。さらに、ソ連の有名なモンゴル学者ウラジミルツォフ(Г.Я. Владимирцов)による『チンギス・ハーンの伝記』、『モンゴル人の社会構造』という書物もある。これらのうち、ウラジミルツォフの『チンギス・ハーンの伝記』は、その前後に出されたチンギス・ハーンに関しするどの作品よりも、学術的な価値が高いものである。ウラジミルツォフの『モンゴル人の社会構造』も、モンゴル史の研究に大きな影響を与え、チンギス・ハーンの時代を研究する上で中心となる貴重な学術的な資料とされている。
これらの著者は、チンギス・ハーンとそれに纏わる出来事を学術的な立場から評価することに努めている。彼らの功績は、チンギス・ハーンとその征服の歴史において起こった出来事を特異な征圧の歴史として捉えていた、それまでの古い考え方を打破し、チンギス・ハーンとその時代の意義を万人に理解可能なものとして説明したことにある。
1930年代に西ヨーロッパでは、何度も再版されたエル・ハラ・ダワーの『チンギス・ハーン将軍とその遺産』、レンベの著による『全人類の主チンギス・ハーン』などが出版されたが、(これらは)チンギス・ハーンをあまりにも賞賛して持ち上げ、犯した過ちを正当化したもので、学術的な価値はそれほど高くなく、史実が半分含まれた小説というべきである。
一方、イギリスの学者ラリフ・フオックスによって書かれた『チンギス・ハーン』という書物は、上記の作品よりも学術的な見地からして極めて優れた作品である。1950年にはD. マーチンの『チンギス・ハーンの繁栄と北宋の征服』という作品が出版された。この作品の優れている点は、O.ラティモアが指摘した通り、西洋の学者たちはモンゴル人の遠征を単にチンギス・ハーンとその子孫たちが行った西方への遠征についてのみ言及し、東方、例えば宋に対して行った遠征については十分言及していない。しかしながらマーチンは宋を征服した出来事を特に詳細に研究している。さらに最も重要な点は、大量の漢語の文献を利用しているということだ。
チンギス・ハーンの伝記として個別に書かれたわけではないが、モンゴルの行った征服、モンゴル帝国、チンギス・ハーンの生涯について述べた数多くの作品が西洋で書かれている。それらのすべてをここで紹介するわけにはいかないが、特にその中で挙げておきたいのは、モンゴルの国外アカデミーの会員、国際モンゴル学会の初代会長を務めたモンゴル学者O.ラティモアによる多くの学術論文である。例えば、『中国の中央アジアの境界』(1940)という作品を挙げるべきであろう。O.ラティモアの作品では、中央アジアおよびモンゴルの遊牧社会の発展、その特徴について非常に興味深く、深い考察がなされている。
国外においてここ数年、チンギス・ハーンに関するいくつかの良書が刊行されたことについても、特に言及したい。これらには、Пауль Рачиневскийの『チンギス・ハーンおよびその生涯と業績』という1983年に出版された書物がある。同書では、歴史的資料を学術的に再度検討し、一部の史実について、新たな解釈を試みている。しかも、チンギス・ハーンの伝記、彼の歴史上で果たした役割と地位について正しい評価を下した優れた書であり、西欧において刊行されたチンギス・ハーンに関する作品の中では特に優れたものである。
チンギス・ハーンについてごく最近出された書籍の中では、内モンゴルの学者サイシャールが1987年に発表した『チンギス・ハーンの要綱』という2冊本がある。サイシャールによるこの書物は、後にも先にも、チンギス・ハーンに関して出された本の中で最も規模が大きなものである。サイシャールは、チンギス・ハーンの伝記、歴史に関するすべての文献資料、論文をくまなく調べ尽くし、チンギス・ハーンの生涯についての詳細な研究を行い、チンギス・ハーンがモンゴル史および世界史において果たした役割、そこに占める位置づけを精確に解釈することに務めた。また、サイシャールの更に優れている点は、歴史的な年代、地名などを調査して明らかにし、誤りを改めることに関して、極めて精緻な仕事を行ったことにある。
『チンギス・ハーンの要綱』は、チンギス・ハーン研究において多大な成功をおさめた、賞賛に値する作品として見做すべきことを特記しなければならない。
モンゴルの封建主義の時代の歴史について、国外で出された書物について言及するならば、日本の学者たちの研究についても触れておくべきだろう。日本の学者たちは、モンゴルの中世の歴史研究において、いうまでもなく第一の地位を占めているが、中でも元朝秘史を詳細に研究した小沢重男や村上、モンゴルの封建主義の歴史を研究した岩村、ヤナイらが挙げられる。その他にもチンギス・ハーンの伝記を記した書物は数多く存在するようだが、筆者(ナツァグドルジ)はタカイシ・カズフジの『チンギス・ハーン』という本が出版されたのを、内モンゴルの学者が翻訳出版したことを通して知ったのみである。
(Ш. Нацагдорж, “Чингис хаан ба түүний үеийн талаарх сурвалж бичиг, зохиол”, Чингис хааны цадиг, Улаанбаатар.1991. より翻訳)
モンゴルの歴史資料として第一に挙げられるのは、チンギス・ハーンとその時代の歴史を描写した文献である。これらは主に、13~15世紀に書かれたものと、15~17世紀に書かれたものの二つに分類できる。
13世紀に書かれた代表的な歴史資料といえば、よく知られた『元朝秘史』である。この書物の成立年代については学者によって諸説あるが、ここでは1240年に成立したとする説を採用して話を進めることにする。
多くの学者たちは『元朝秘史』を物語性の強い、むしろ口承文芸に属するものであり、歴史的な裏づけは低く、歴史的資料としての価値は低いと見なしているようだ。しかしながら、『元朝秘史』は口承文芸や詩に彩られた側面だけでなく、13世紀のモンゴルの歴史、例えばチンギス・ハーンのとった行動などについて詳しく描写しているという点も見逃してはならず、十分に価値ある歴史的資料だということは否定できない。
『元朝秘史』は当時の文献として唯一残されたものではなく、それと並行してその他の歴史資料も存在していたことが明らかになっている。元の時代の文献を見ると、黄金の家系、つまり皇帝の血筋を引く者にしか閲覧することを許されなかったという『イフ・トプチョー』についての記述がある。
『元朝秘史』は現存するものはすべてモンゴル語の発音に漢字を当てて書き表したものだけで、原本となるモンゴル語で書かれたものは失われてしまっている。1926年に古文書館の館長を務めていたジャミヤン・グンは、ロプサンダンザンの作による『アルタン・トプチ』をハルハのツェツェン・ハン盟のバヤントゥメンの近くで、ユンシィエブ太祖(?)の子孫である人から譲り受けたが、この文献には『元朝秘史』のかなり多くの部分が重複して含まれていただけでなく、『元朝秘史』には記述されていなかった数多くの興味深い事実が記述されている。
ジャミヤンが入手した『羅・アルタン・トプチ』の存在は、『元朝秘史』がもともとモンゴル文字で書かれていたということを裏付ける証拠となりうる。
なお、アルタントプチと呼ばれるものには『羅・アルタン・トプチ』だけでなく、『大アルタントプチ』や作者不明の『アルタン・トプチ』など、いくつか存在する。
J. ツェベーによれば、十六世紀から十七世紀に書かれたサガンセチェンによる『蒙古源流』などはラマ僧たちが実権を握っていた頃に書かれたもので、モンゴルの王族の系統をインドやチベットの系統に結びつけて記述しており、チンギス・ハーンを始めとするモンゴルの王侯たちの行いはすべてチベット仏教のラマ僧の説法に従ってなされていたかのような記述が随所に見受けられる。
その他の文献としては、バーリン出身のラーシ・ポンツァグによる『水晶念珠』、チャハル出身のゴンポジャブによる『恒河之流』、ジャンバルドルジによる『水晶鑑』などが挙げられる。
これらの作品は、当時の知識人たちによって中国語やチベット語の文献を参考にして書かれたという特徴を持ち、作者自身のものの見方が作品に反映されているという点が興味深い。例えば、ある作品では一貫してチンギス・ハーンを主体としているのに対して、別のある作品では弟のハサルを弁護したり賞賛したりするニュアンスが強い。ある作品では、中国の文献にモンゴルの歴史が歪曲して描かれていることを批判している。特に、ラーシ・ポンツァグの『水晶念珠』やジャンバルドルジの『水晶鑑』には、他の歴史書には現れないような興味深い内容が含まれる。
とはいえ、それらの記述には他の歴史書と矛盾するものも少なくない。例えばジャンバルドルジの作品では、テムジンが3歳のときに父親が亡くなり、母親もそのすぐ後で亡くなったと描写されており、その他の歴史書や『元朝秘史』とは内容に食い違いがある。だから、こられの歴史家たちの記述に目を通す際には、十分批判的な態度で臨む必要がある。
上記の文献以外には、『シャル・トージ』や『アスラクチ史』、ロミーによる『モンゴルのボルジギン氏族の歴史』、ガルダン・トスラクチによる『エルデニーン・エルヘ』など、様々な文献が存在する。
また、モンゴル語の文献だけでなく、外国語によって記述された文献も非常に数多く、まず第一に中国の歴史書が挙げられる。数多くの文献のなかでも、特に重要なのは『元史』という書物である。
この何巻にも及んで書き綴られた元史は、元朝の崩壊後に成立した漢民族の王朝である明朝の歴史家たちによって編纂されたものである。この巨著には、現在では残されていない数多くの資料が利用されているだけでなく、間近に起こった出来事を検証して書かれているため、いずれも極めて多くの情報が含まれている。しかしながら、この書物は過分に明代の歴史学者が史実を歪曲して記述した面があり、誤った記述も少なくないという点を指摘しておかなければならない。
モンゴル古典籍院のメンバーであるダンダー氏は、同院のプロジェクトとして、元史を中国語からモンゴル語に翻訳する作業を行った。彼のこの業績は、モンゴル史研究における忘れがたい功績であり、後世のモンゴル人歴史学者のために残された記念碑的事業といえよう。
なお、元史の他には『皇元聖武親征録』というもう一つ重要な書物がある。この書物もまた、ダンダー氏によってモンゴル語訳がなされている。最近では、内モンゴルでも『皇元聖武親征録』が新たに翻訳して出版された。これは元々はモンゴル語で書かれた作者不明の書であり、元朝秘史に書かれている内容とほとんど一致している上に、全く記述されていない内容も含まれているという点が興味深い。
中国にはこの他、重要な文献として漢人である長春真人(邱処機)による「長春真人西遊記」という非常に貴重で珍しい書物も存在する。漢人の学者、長春真人がチンギス・ハーンの命により漢地から中央アジアに向けて長い旅を続け、チンギス・ハーンに謁見したことなどを克明に記録した実話である。
漢語で書かれた重要な資料にはこの他に、『蒙韃備録』、『黒韃事略』という二冊の書物があり、十三世紀のモンゴルの歴史、政治、生活、文学、軍事、道徳習慣に関して信頼に値する情報が含まれている。この二冊の書はモンゴル国で翻訳されたが、出版には至らなかった。しかしながら、内モンゴルの学者たちは『モンゴル文献集(Монгол тулгар бичгийн цуврал)』の中に上記の二冊の書を『皇元聖武親征録』とまとめて一冊の本とし、1985年に出版公開している。
モンゴルの歴史、特にチンギス・ハーンの歴史や伝記に関する漢語で書かれた資料は非常に多いが、これらのすべてを挙げるのはひとまず止めておき、他の外国語で書かれた文献について述べることとする。
まず挙げるべきなのは、ラシードゥッディーン(1247~1318)によって編纂された『集史』という巨著である。この書物は、ユダヤ民族で医師であった(ラシードゥッディーンによって)、現在のイランの地に成ったモンゴル国のガザンやウルジートらのハーンたちの治世の時代に、ハーンらの命を受けて書かれたものである。ガザン・ハーン(1271~1304)は、(中略)イランに成ったイル・ハン国のハーンであり、非常に学識と権力を備えていた人物として歴史書に記されている。
ラシードゥッディーンは、イランのモンゴルのハーンの宮殿にある書庫に収められていた『黄金の秘冊(アルタン・デプテル)』などの、現在では残されていない特に重要な資料を利用しているという点で、(『集史』は)特に価値が高い。
『集史』を編纂したのはラシードゥッデーンとされるが、実際に執筆を行ったのはボルド・チンサンという人物だった。ボルド・チンサンはモンゴルの歴史書について詳しかった上に、『アルタン・デプテル』以外にも、名もない数多くのモンゴル語の作品、記録、論述、メモ書きなどを豊富に所有していたようだ。さらにボルド・チンサンのもとでは、モンゴルの歴史書、法制に通じた老翁たちが書記を務めていたであろうことは言うまでもない。ラシードゥッデーンの作品には、元朝秘史の中の出来事をもっと詳しく書いた様々な史実や伝説が含まれている。それにもかかわらず、学者たちによる詳細な研究が十分になされているとは言いがたい。
ラシードゥッデーンの『集史』の他には、ジュヴァイニーの著による『世界征服者史』という書物がある。ジュヴァイニーはこの書物を1260年に著し、チンギス・ハーンからモンケ・ハーンの時代までの歴史を書き記している。ジュヴァイニーは、イランの地のモンゴル国のウレフ、アバガらのハーンの時代に、政治的地位の高い大臣を務めていた。ラシードゥッデーンは『集史』において、ジュヴァイニーのこの書物を資料として利用している。記録の豊富さにおいてはラシードゥッデーンほどではないが、これもまた重要な文献の一つとして挙げておくべき作品である。
西洋で著されたモンゴルの歴史書には、この他には例えば、プラノ・カルピニの『モンゴル人の歴史』、ウィリアム・ルブルクの『東方旅行記(『蒙古帝国旅行記』)』などの二冊の書がある。1248年にモンゴルに赴いたローマのパプ法王(インケンティウス四世?)の使節プラノ・カルピニ、及び1248年にフランスのリュードスヴィック王の使者としてモンゴルに赴いたウィリアム・ルブリクらの二人の修道士は、互いに近い時代にそれぞれモンゴルに渡って、モンゴルの当時の首都カラ・コリムに滞在した。この間に見聞収集した記録は、当時のモンゴルの状況を非常に詳細に記述しているため、我々歴史家たちに信頼できる情報をもたらしてくれる。
上記の二冊の書物の他には、マガキ・ワルダンらによる古代アルメニア語で書かれた書があり、早くからモンゴルの一部の学者がそれらの文献をモンゴル語に翻訳して雑誌に発表していた。これらの文献からは、モンゴル人が彼らに対して行った征服について、いくつかの興味深い情報が得られる。西ヨーロッパの言語で書かれた重要な文献としては、イタリアのマルコ・ポーロの旅行記が挙げられる。以前、モンゴルの国家アカデミー会員であるリンチンがマルコ・ポーロの作品を極めて美しいモンゴル語に翻訳したものを何章か発表したが、残念なことに最後まで翻訳されるには至らなかった。内モンゴルでは、マルコ・ポーロの作品が二度に渡って翻訳出版されている。
チンギス・ハーンおよびその時代に関しては、国外において数多く学術的な文献が発表されている。特に優れたものとしては、Д.Оссоによる『モンゴル人の歴史』(1824)、ソ連(現在のロシア)の歴史家В.В. Бартольдによる『モンゴル人による征服時代のトルキスタン』、また特に同著者の『チンギス・ハーンの帝国成立について』という輝かしい研究論文がある。さらに、ソ連の有名なモンゴル学者ウラジミルツォフ(Г.Я. Владимирцов)による『チンギス・ハーンの伝記』、『モンゴル人の社会構造』という書物もある。これらのうち、ウラジミルツォフの『チンギス・ハーンの伝記』は、その前後に出されたチンギス・ハーンに関しするどの作品よりも、学術的な価値が高いものである。ウラジミルツォフの『モンゴル人の社会構造』も、モンゴル史の研究に大きな影響を与え、チンギス・ハーンの時代を研究する上で中心となる貴重な学術的な資料とされている。
これらの著者は、チンギス・ハーンとそれに纏わる出来事を学術的な立場から評価することに努めている。彼らの功績は、チンギス・ハーンとその征服の歴史において起こった出来事を特異な征圧の歴史として捉えていた、それまでの古い考え方を打破し、チンギス・ハーンとその時代の意義を万人に理解可能なものとして説明したことにある。
1930年代に西ヨーロッパでは、何度も再版されたエル・ハラ・ダワーの『チンギス・ハーン将軍とその遺産』、レンベの著による『全人類の主チンギス・ハーン』などが出版されたが、(これらは)チンギス・ハーンをあまりにも賞賛して持ち上げ、犯した過ちを正当化したもので、学術的な価値はそれほど高くなく、史実が半分含まれた小説というべきである。
一方、イギリスの学者ラリフ・フオックスによって書かれた『チンギス・ハーン』という書物は、上記の作品よりも学術的な見地からして極めて優れた作品である。1950年にはD. マーチンの『チンギス・ハーンの繁栄と北宋の征服』という作品が出版された。この作品の優れている点は、O.ラティモアが指摘した通り、西洋の学者たちはモンゴル人の遠征を単にチンギス・ハーンとその子孫たちが行った西方への遠征についてのみ言及し、東方、例えば宋に対して行った遠征については十分言及していない。しかしながらマーチンは宋を征服した出来事を特に詳細に研究している。さらに最も重要な点は、大量の漢語の文献を利用しているということだ。
チンギス・ハーンの伝記として個別に書かれたわけではないが、モンゴルの行った征服、モンゴル帝国、チンギス・ハーンの生涯について述べた数多くの作品が西洋で書かれている。それらのすべてをここで紹介するわけにはいかないが、特にその中で挙げておきたいのは、モンゴルの国外アカデミーの会員、国際モンゴル学会の初代会長を務めたモンゴル学者O.ラティモアによる多くの学術論文である。例えば、『中国の中央アジアの境界』(1940)という作品を挙げるべきであろう。O.ラティモアの作品では、中央アジアおよびモンゴルの遊牧社会の発展、その特徴について非常に興味深く、深い考察がなされている。
国外においてここ数年、チンギス・ハーンに関するいくつかの良書が刊行されたことについても、特に言及したい。これらには、Пауль Рачиневскийの『チンギス・ハーンおよびその生涯と業績』という1983年に出版された書物がある。同書では、歴史的資料を学術的に再度検討し、一部の史実について、新たな解釈を試みている。しかも、チンギス・ハーンの伝記、彼の歴史上で果たした役割と地位について正しい評価を下した優れた書であり、西欧において刊行されたチンギス・ハーンに関する作品の中では特に優れたものである。
チンギス・ハーンについてごく最近出された書籍の中では、内モンゴルの学者サイシャールが1987年に発表した『チンギス・ハーンの要綱』という2冊本がある。サイシャールによるこの書物は、後にも先にも、チンギス・ハーンに関して出された本の中で最も規模が大きなものである。サイシャールは、チンギス・ハーンの伝記、歴史に関するすべての文献資料、論文をくまなく調べ尽くし、チンギス・ハーンの生涯についての詳細な研究を行い、チンギス・ハーンがモンゴル史および世界史において果たした役割、そこに占める位置づけを精確に解釈することに務めた。また、サイシャールの更に優れている点は、歴史的な年代、地名などを調査して明らかにし、誤りを改めることに関して、極めて精緻な仕事を行ったことにある。
『チンギス・ハーンの要綱』は、チンギス・ハーン研究において多大な成功をおさめた、賞賛に値する作品として見做すべきことを特記しなければならない。
モンゴルの封建主義の時代の歴史について、国外で出された書物について言及するならば、日本の学者たちの研究についても触れておくべきだろう。日本の学者たちは、モンゴルの中世の歴史研究において、いうまでもなく第一の地位を占めているが、中でも元朝秘史を詳細に研究した小沢重男や村上、モンゴルの封建主義の歴史を研究した岩村、ヤナイらが挙げられる。その他にもチンギス・ハーンの伝記を記した書物は数多く存在するようだが、筆者(ナツァグドルジ)はタカイシ・カズフジの『チンギス・ハーン』という本が出版されたのを、内モンゴルの学者が翻訳出版したことを通して知ったのみである。
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