ドイツのモンゴル学の権威、ハイシッヒの著書(『モンゴルの歴史と文化』, 田中克彦訳, 岩波文庫, 2000年)にも「ホホ・ソダル」に関するエピソードを記した箇所がある。訳書においては、「ホホ・ソダル」の題名は日本語で「青い年代記」と訳出されている。
ハイシッヒは二十世紀前半頃に内蒙古を旅した際、開魯という町でモンゴル文学の出版社である「東モンゴル文学社」を訪れ、石版刷りの「ホホ・ソダル」を二部購入した。青紫色の絹で装丁された全12巻セットで、総量が2千ページにも達するものだった。これ以外にもすでに同じ作品が1929年に北京で発行されていたが、この版では作品成立の背景はおろか、作者が誰であるかすらも記載されていなかった。
しかしながら、東モンゴル文学社が刊行した「ホホ・ソダル」には冒頭に作品成立の由来が述べられており、同時にハイシッヒは、インジャンナシの自伝的覚え書きを記した書も偶然入手することができた。この自伝でインジャンナシは、「ホホ・ソダル」執筆に当たって、モンゴル王朝(1260~1368年)についての中国側の正史での年代記的記述を骨組みとし、自分自身の想像とモンゴルの歴史書、詩文集、説話から取り上げた多くの事柄を注ぎ込んで肉付けをしたと述べている。また、物語にはモンゴル史書が述べるところと食い違う点もしばしばあると記されていた。
ハイシッヒはこれを読んで、「私はこれらの記載を読んだとき、大変な興奮を覚えた」と評している。それまでドイツでは「元朝秘史」、「黄金史」、「蒙古源流」以外にモンゴル語の歴史作品は全く知られていなかった。1829年にシュミットが「蒙古源流」をドイツ語訳したのを最後にモンゴル人の歴史書は汲みつくされたと考えられていた。ところがインジャンナシが「ホホ・ソダル」を著作した際には、まだ多くのモンゴル語の歴史書や年代記を資料として利用できた可能性もあるというのだ。
こうしたいきさつから、ハイシッヒは刊行された「ホホ・ソダル」の原写本をぜひとも見たいと思い、内蒙古の地であちこちから情報を集めようと苦心したようだ。
ハイシッヒは「東モンゴル文学社」の責任者であるブフヘシグ氏に原写本の所在を尋ねたところ、すでにずっと前に持ち主であるハルチン部族のモンゴル人に返してしまったとのことで、今はどこにあるのか分からないという返事だった。
そうしているうちに、「ホホ・ソダル」の完全な写本が仏教の聖山である五台山の上の一僧院にあるという噂を耳にしたが、当時は戦時下で、僧院は第八路軍の占領下にあったため到達不可能だった。ハイシッヒはモンゴル人を現地に送り込もうとしたが、うまくいかなかった。
ある日、一人のモンゴル人がやってきて、ハラチン盟のある老人がしきいの下に埋めて持っていると教えてくれた。そこでハイシッヒは再びモンゴル人を現地に差し向けたが、老人はすでに亡くなったあとで、本の行方は分からなくなっていた。
後にハイシッヒはモンゴル人の愛書家で学者のヘシンガという人物に「ホホ・ソダル」の写本を見せてもらうチャンスに恵まれた。青い布に包まれた九冊からなるもので、各巻は約120ページほどで「ホホ・ソダル」のうち第43~72章が含まれていた。ハイシッヒはこれを晴天下で撮影して全九冊をマイクロフィルムに収めることに成功した。
1943年以後の動乱でいったんこの原写本は失われていたが、再び発見され、現在では図書館に収められているらしい。現在に至っても、ハイシッヒが見ることができた原写本以外は発見されておらず、写本の残りの部分はなお見つけ出されなければならないということだ。
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